皇帝陛下
がジェイドの補佐官という立ち位置になっていくらかの月日が流れた。相も変わらずへの総評は揺るがない。それどころか、ピオニーやフリングスに声をかけられるようになってからは、酷さが増したように思える。
(暇人だな・・・)
こそこそと陰口を言っている連中を傍目で流しながらは廊下を歩く。今し方ジェイドに書類を持っていったばかりだから両手は空だ。だからこそこの時を狙われたのかもしれない。
「・・・っ!?」
頭のてっぺんに冷たさを感じたときには遅かった。よける間もなく、頭から足先までに滝が流れ、ずぶぬれになる。頭上でくすくす笑い声がきこえた。これは軍人ではないなと瞬時に判断し、は殺気を込めて声の発生源を睨みつけた。ひっ、と小さく声を上げてやつが逃げていくのを感じて、はぁと大きなため息をつく。
(面倒なことしてくれたな・・・)
このまま歩き回ってはあちこちを濡らしてしまう。かといってこのまま突っ立っているわけにもいかない。もしあのお三方に見つかってしまったら回避が面倒だ。
「どうするかな・・・」
「なにがだ?」
「!!?」
うつむいて考えていたために反応が遅れた。返事があるはずのない独り言に対して問われて勢いよく顔を上げると、わりと近い位置に彼の顔があって、思わず息を詰める。
「、これは一体どういうことだ?」
「・・・ピオニー陛下・・・」
よりにもよってこの人か、とは内心舌打ちした。これがまだフリングスだったならば黙っていてくれで押し切れたかもしれないのだが。
「・・・陛下のお手を煩わせる程のことではありません」
「ほう・・・?」
あぁやばい、とは直感した。怒っている、これは、確実に。
「こんなところで頭のてっぺんから足先までずぶ濡れで、それほどのことじゃない、ってか?」
「・・・・・」
「」
呼ばれ、逸らしていた目をピオニーへ戻す。まっすぐ見つめる瞳は、決して嘘を許さないと言っていた。
「俺は、そんなに頼りない皇帝か?」
この瞳に、嘘などつけるはずがない。
「・・・いえ、そのようなことはありません。ただ本当に、陛下のお手を煩わせるなどど、と思っただけで」
「煩わしいと思うなら初めから放っておいている」
「・・・・・」
観念するしかないか。はひとつ息をはいてピオニーにきちんと向き直った。
「・・・ご覧の通りといいますか、ご想像通りだとは思いますが、通りがけに水をかけられました」
「誰にだ」
「相手の顔は見ていませんが、女でした。軍の人間ではないようにおもいました」
殺気をとばしたらすぐに逃げたので。そう言うとピオニーは呆れのため息をついた。
「お前な・・・そういうときはすぐに捕らえろ」
「申し訳ありません。さすがに三階まで跳躍することはできないと思いましたので」
見上げながら言う。そう、確かあの辺りだったはずだ、と見て、「あ」と声が漏れた。どうしたとピオニーがの視線の先を見る。そこに、人影があった。ビクリと揺れたかと思うと、サッと隠れる。残念ながら行動が遅かった。「失礼」とだけこぼし、は小さく唱えた。
「アクアエッジ」
「っ・・・きゃあああっ!!?」
限りなく、殺傷能力を消すまでおさえた威力のアクアエッジを彼女に当てる。と同じく水浸しになったというわけだ。今の悲鳴で兵士が駆けつけてくると少々面倒だが、まぁピオニーが一緒だから大丈夫だろう。幸い近くにいたのはフリングスだけだったようで、彼はの様に眉をひそめた後、ピオニーの命で犯人を事情聴取するために連れていった。そして戻ってきたフリングスの手にはタオルがあり、礼を言って生乾きになっていた頭を拭く。
「こんなことが、前から起きているのか?」
「え、と・・・さすがに物理的にきたのは初めてです。あぁ、訓練中をのぞいて、ですが」
「・・・・・」
ピオニーの視線が刺さる。いま墓穴を掘った気がするが、これはすでに上司であるジェイドは知っていることだ。
「」
「はい」
先ほどと同じまっすぐな視線がに向けられる。
「またこんなことが起きたり・・・いや、起こりそうなときは、すぐに俺かアスランかジェイドに言え。いいな」
「・・・拒否権は」
「あるわけがないだろう」
「・・・ですよね」
こんな醜態を見せておいて見逃せなど虫のいい話だ。もうはあきらめることにした。そのうち命令だと言いかねない。
「というわけだ、。明日は俺につき合え」
「・・・は?」
なにが、というわけだ、なのか話が読めなくて戸惑いながら思わずフリングスを見る。彼はあきらめの表情で、いつものことですとでも言いたげに小さく肩をすくめた。
「明日の正午、酒場で待ち合わせな」
「きょ、拒否権はっ!?」
「無い!!」
きっぱりと胸を張って言われ、思わず額を押さえて俯いた。その肩をフリングスがぽんとたたく。
「小尉も陛下に気に入られてしまったようなので、諦めてください」
「・・・」
「そうだ、諦めろ、」
「・・・・・」
「あぁそれから」
大きくため息をつこうとしたときに追加があり、は顔を上げてピオニーを見た。なにごとかとちいさく首傾げると、彼はにっと楽しそうに笑う。
「あまり畏まりすぎるな」
「・・・・・は?」
今日だけで何度この抜けた声を出せばいいのだろう。思いがけぬことをいわれては目を瞬かせるばかりだ。
「敬語を外せ、呼び捨てにしろ、までは言わん。さすがに面倒ではすまないからな。だが、アスランやジェイドみたいに話せ」
「・・・命令ですか?」
「命令じゃない、“頼み”だ」
「・・・・・」
この皇帝は自分の噂どころか素性も知っている。それでもなお、“近づいてこい”と言うのか。はひとつ小さく息を吐き、そして小さく笑った。
「?」
「あなたがこの国の皇でよかった」
「うん?」
突然なんだ、と言いたげにピオニーはをみたが、彼女はただ笑みを浮かべて彼をみただけで、補足はつけない。
「わかりました、敬愛するピオニー陛下」
そして格式の一礼をする。だがそれは角張ったものではな、ごく自然な柔らかなもので、のピオニーに対する見方が変わった証拠だった。
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