水上帝都の嵐
転属初日のいざこざがあったものの、なぜかに対するそれ以上のアタリは発生しなかった。師団長が圧力をかけたのか、はたまたジェイドによるものなのかは定かではないが、ほぼそのどちらかの力で間違いはないだろう。だが陰口はやはりおさまるものではなく、何かしら密かに噂はされていた。あーはいはいと聞き流し、書類の山を抱えながら器用にその部屋をノックする。初日で見せた事務処理能力が予想以上によかったらしく、こうして補佐官まがいのこともさせられるようになってしまった。これも陰口が増えた原因のひとつなのだが、あえてそれを上司に言うことはしない。あの上司のことだから、言わずとも気づいているであろう。どうぞ、の声を聞いて「失礼します」と声をかけて執務室に入る。部屋の主はいつものように机の前におり、書類の山はまだそこにもあった。入室してその空いているスペースに自分が持ってきた山を置き、は〜と息を吐く。
「すごい量ですね・・・」
思わず呟けば、「上官がこちらに押しつけて来るもので」と返される。どうやら師団長は自分がやるよりジェイドがやるほうがはやいと思っているらしく、本当に自分がしなければならないもの以外は、こうしてジェイドに回しているのだとか。手伝いは、と問えば、今日は結構です、と言われたので一礼して下がろうとしたとき、顔をあげて視界に入ったのは、ジェイド以外の“人”だった。窓枠に足をかけたその人物に、は思わず目を丸くし瞬かせる。
「な・・・」
しーっと相手にジェスチャーされて無意識に口を閉ざしてしまうが、その挙動不審さはこの上司にはバレバレである。そして彼も背後の人物には気づいているようで、大きくため息をついた。
「また抜け出してきたのですか?陛下」
「げ」
「へっ」
後ろに目を向けることもなく言い当てたジェイドの様子に、陛下と呼ばれた彼、ピオニー・ウパラ・マルクト九世は苦渋の色を顔にうかべた。なぜ陛下がここに、とは変な声を漏らしたあと、唖然としたまま彼を見ている。
「お〜、タイミングがいいときにきたようだな?俺は」
「・・・そうでもありません」
「そういうなよジェイド」
なんのタイミングがいいのだろうか。軽く首を傾げていると、ピオニーがジェイドの横を抜けての隣に立った。
「おまえが・か」
「は、はいっ!」
ピシッと背筋を伸ばし、ピオニーを見つめる。一般兵が皇帝にこう間近で会うことはそうあることではない。さらにいえばは平民の出。こうして皇帝の前に出ることさえ、ないであろう出来事と認識していたのだ。認識から外れていることがあるとしたら、それはがすでに一般兵ではなく小尉、ここがピオニーの幼なじみジェイドの部屋で、皇帝の逃げ場所でもあるということだ。
「・・・なんだ、普通の女性じゃないか」
「・・・は?」
皇帝相手に思わず間の抜けた声が出る。
「あなたは彼女をどんなものだと思っていたのですか」
あきれ声でジェイドが言い、ため息まで漏れる。
「そういったってお前も興味あったんだろ?『女神への反逆者』」
「・・・」
ピオニーの口からソレが出てきてピクと肩がふるえる。あぁ悪い、と軽い声でピオニーが苦笑した。
「預言を否と唱えるくらいだからどんなやつかと思ったんだ。だが、そうだな・・・安心したというか」
「安心・・・ですか?」
「あぁ。まったく話の通じない奴ならどうしようかと思ったんだ」
「・・・そうであったならば、私はここにはいないでしょう」
軍は団体組織だ。その中に話がまったく通じない意固地な者がいては統率がとれない。とっくに追い出されているだろう。
「あぁ、おまえがまともでよかったよ」
「まとも・・・?」
この世界において預言を否定する人間がまともと言えるのだろうか。その疑問が伝わったのか、ピオニーは切なげな笑みを浮かべてを見た。
「預言に疑問を持つってのは、まったく悪いことではないということだ」
「え・・・」
ピオニーはそれ以上は言わなかった。彼も預言を聞き入れているはずだ。その皇帝が預言を疑うようなことを口にするとあっては民に不信を浮かばせてしまう。
「この話はここまでだ。さてと、追っ手が来る前に・・・」
ピオニーが部屋から出ようとドアに向かったとき、控えめだが少々慌ただしくドアがノックされた。ぴた、とピオニーが固まり、ジェイドがさりげなく窓への退避経路を塞ぐ。
「どうぞ」
「失礼します!!陛下がここに・・・っ!?」
部屋の主の声をきき急ぎ入ってきたのは、銀髪の青年だった。服装を見る限り、おなじマルクト軍人だ。
「よ・・・よう、アスラン・・・」
「ピオニー陛下!また勝手に抜け出して・・・!探すこっちの身にもなってください!」
「そう怒るなって。息抜きも大事だろ?」
「貴方のは息抜きの度を超しているから言っているのです!」
ピシャン!と叱られ、ピオニーが拗ねる。皇帝陛下に説教ができる、この「アスラン」と呼ばれた青年は一体何者なのだろうか。彼のこともだが、こんな風に叱られる皇帝を目にしてしまったのもあっては少々混乱気味である。
「そうカリカリするなよアスラン。がびっくりしてるじゃないか」
「え?」
そこで彼は初めての存在に気づいたようで、目を丸くして彼女を見た。
「し、失礼しました、このようなところを・・・」
「い、いえ・・・衝撃的ではありましたが」
「陛下の脱走癖には困ったもので・・・」
「そんなものがあるんですか・・・」
後からジェイドに聞いた話、少年時代からよく屋敷を抜け出して遊んでいたそうだ。
「申し遅れました。私はアスラン・フリングス中佐です」
「このたび第三師団配属となりました、・小尉です」
フリングスはの名をきいて軽く目をみはった。
「あなたが、あの・・・いえ、失礼しました」
「あぁ、どうぞお気になさらず」
もう慣れました。一見なんでもないように言い放つに、フリングスは小さく首を振る。
「頭では慣れたと思っていても、心は少なからず傷ついているはずです。そういったものは、自分では気づけないこともあります。失言を、申し訳ありませんでした」
「・・・」
今度はが目を見開いてぱちぱちと瞬かせる番だった。思わずピオニーを見れば、「こいつはこういうやつだ」と笑って返ってくる。
「陛下、いい加減戻りますよ」
「わかったわかった。そうせっつくな」
急かすフリングスをとりあえず先にドアの方へ押しやり、ピオニーはに向き直った。
「近々、ゆっくり話す機会ができるといいな」
それだけ言うとピオニーは二人に背を向け、フリングスと共にジェイドの執務室をあとにした。
「・・・・・」
「ご感想は?」
すっかり呆けてしまっているにジェイドがひとつきく。「嵐が来て去ったようです・・・」と言えば、彼にしては珍しくやわらかめの呆れ声で、「違いありません」と返したのだった。
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