土佐の国主、長宗我部元親は、これから仕掛ける罠の為、とある村を人払いしていた。しかしふと視界の隅を小さな影が通り過ぎて、急ぎあとを追った。
追いついたときにはすでに家臣が行く手を阻んでいたが、なにやら困っている様子だった。
「どうした?」
「それが・・・」
ここは危険だから村を一時離れるようにと言っても首を傾げるだけらしい。十を越えたかというくらいの年頃だから理解ができていないとは思えないが、と考えていると、少女の口がわずかに動き、だがなにも発せられずに閉じた。もしやと思い、元親は少女の背に合わせてかがみ、自らの耳を示して見せた。少女はぱっと目を瞠り、こくこくと頷いた。どうやら難聴者のようだと家臣に伝えれば、今度は身振り手振りで伝えようとする。だがうまく伝わらなかった。急がねば作戦開始の時が来てしまう。こうなればひとまず強制的に連れて行くか、と考えたとき、少女がきょろきょろあたりを見渡し、何かを探し始めた。その様子を黙ってみていると、少女は落ちていた木の枝を拾い、地面に文字を書き始めた。文字の学があることに驚き、だがこれで意志疎通ができると安堵する。
『ここでなにかあるんですか』
書き終えた少女が見上げてくる。元親も地面にしゃがみこみ、少女の問いに答えた。
『ここはもうすぐ敵と交戦の場となる。危険だから人払いをしたのだが、親はどうした』
元親の返事をみて少女は一瞬固まったが、少し気落ちした様子で元親の問いに返す。
『おやはいません。もじをおしえてくれたひとも、もういません』
つまりは一人ということか。そばに伝えてくれる人がいなければ状況がわからなくても無理はない。近くに住んでいる者たちは、おそらく意志疎通がしづらくて敬遠しがちなのだろう。
『ならば、俺のそばにいろ。危険にかわりはないが、一人でいるよりは安心できるだろう』
元親は少女が少し考えたのち、こくんと頷いたのを確認し、また問う。
『おまえの名は?』
『、です』
『俺は、元親だ』
そう返して少女の頭を撫でた後、すくっと立ち上がって元親は家臣たちに告げた。
「策を少し変更する」
元親の出した策に家臣たちは少々驚いて少女を見、だが策実行に向けて駆けだした。
元々の策は祭り好きの敵将をおびきだして始末する、というものだった。それを“楽を奏でながらに酌をさせ酔い潰す”というものに変更になった。さすがにこどもの前で堂々斬るのは、という元親の配慮だった。こどもの酌なら敵も油断して飲み続けるであろうとの読みだ。突然の大役には戸惑ったが、それでも臆さずしっかりと頷いて見せた。
「肝のすわった女子だな」
言葉は通じていないが、頭を撫でられる様子から感じ取ったのか、はまんざらでもなさそうだった。そして元親らが楽を奏で始める。敵は見事に、引っかかってくれた。
「こんな幼子が酌とはのぅ」
「ほかに酌ができるものがおらぬゆえ」
「いやいや、これも新鮮でよいさ」
会話はうまくききとれないが、どうやら策はうまくいっているようだ。は内心どきどきしながら酒をすすめていった。だがその耳には、元親等が奏でる音もほとんど入りこんでこない。三味線を奏でる元親はとても楽しそうなのにその音をきくことができなくて、は残念に思っていた。
やがてその敵将と連れの家臣たちは酔いつぶれた。濃度の高い酒を飲ませ続けたからしばらく動けず、次の戦には出陣できないであろう。家臣たちに人目につかぬところへ運ばせ、元親はと目線を合わせた。
「よく頑張ってくれたな」
“音”はきこえない。だが空気を感じては頷いた。元親は地面にしゃがみ込むと、文字を書き始める。も地面にしゃがみこんで元親を待った。
『おまえは今までどうしてきた』
『ちかくにすんでいるひとのてつだいをして、たべものをわけてもらっていました』
『言葉は通じないのであろう?』
『みぶりてぶりでなんとか・・・』
しゅん、と視線を落とす様子をみれば、通じず苦労することのほうが多いことが読みとれる。元親はしばし考え、口元に笑みを浮かべた。
『俺と共にくるか?』
え、との口から小さく音がもれた。驚いているに対し元親はそのまま続ける。
『さすがに俺の元に養子には厳しいだろうが・・・そうだな、吉成にきいてみるか』
『あっ、あっ、あの、どうしてあたしにそこまで』
慌てるに元親は一瞬きょとんとし、すぐににっと笑った。
『おまえは俺の突然の命を受け、見事成し遂げた。そんなおまえの度胸を気に入っただけだ』
「・・・・・」
言葉が出なかった。だが断る理由もなく、むしろ有り難い提案に、は地面だというのに正座し、頭を下げた。
“ありがとうございます。よろしくおねがいします”
言葉に出なくてもその姿勢で元親はの思いを読みとり、その頭をそっと撫でたのであった。
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