真夜中。辺りには人工の光が灯っていた。ビル群の多いこの都内では、星のあかりは期待できない。ライフルバッグを背負ったは、愛車を路肩に停め、その建物を眺めていた。“国家公安委員会 警察庁”と書かれた看板を一目見た時、上の方で窓が割れるような大きな音がして、顔を上げる。視界に入ったのは、白いかたまり。ひとの姿をしたそれは、まるで猿のように素早く身軽に木から電灯のポールへ跳び移り、コンクリートを蹴った。桜田通りに飛び出してきたのは、女だった。タイトスカートにヒールであれだけのアクションをするなんて自分には無理だなと思いながら、スマホの通話ボタンを押した。
「目標が民間人の車を奪って六本木方面にとうそ、」
の声が途切れた。途切れる直前にふかしあげるエンジン音と何かガシャンという音をきいてそちらを見たからだ。『どうした?』ときかれたのに対し、いや、と返す。
「降谷くんがそれを追って爆走して行った」
『そうか・・・彼が来るか』
なんだか楽しそうな彼に、まったくとこぼす。
「あんまり刺激しないであげてよ?」
『俺は何もしちゃいないさ。彼が勝手に熱くなるんだ』
おそらく通話しながらの運転だろうが、肩をすくめているような様が目に浮かぶ。
「とにかく、私もそっちに向かうから、頼んだわよ」
あぁ、と赤井秀一が返すのをきくと、は通話を切ってバイクに跨った。目指すは彼らの向かった六本木通り、そして、首都高へと向かった。
首都高に入り一般車の間をすり抜けながら走っていると、前方が盛大に事故を起こしていた。隙間からなんとかその先に行くと、シボレーを失くして新たに赤井が乗り換えた赤のマスタングが停車しており、赤井がライフルをセットしていた。
「秀一、ヤツは?」
「この先へ行った。安室くんはそのまま追って行った」
スコープを覗き込んで位置確認する赤井の隣には立った。
「あんたは?」
「この先は渋滞しているようでな・・・」
「戻って来るのを見越して待ち伏せしていると」
「そういうことだ」
「私、いる?」
一応ライフルあるけど、と言うと、ちらと赤井が視線をよこす。
「念の為に用意しておけ」
「了解」
言われてはバッグからライフルを取り出した。おそらく彼だけで充分だろうが、念の為、だ。そしてしばらくすると、女の乗った車がものすごい勢いで爆走してきた。赤井とはその運転席に十字線を合わせる。だが女はアクセルを踏み込んだまま頭を下げ、ダッシュボードに隠してしまう。
「ちっ」
これでは狙えない。が舌打ちをし、赤井が目を細めた。赤井はスコープの十字線を運転席から右前輪へと移し、引き金を引いた。赤井は放った銃弾は右前輪に命中し、パアァァンと破裂音を響かせた。コントロールのきかなくなった車をなんとか動かそうと女が身体を起こしてハンドルを切るが、車は言う事をきかない。女はギリギリでマスタングを避けたが側壁に激突し、さらには先ほど事故を起こした軽自動車とタンクローリーに激突し、三台とも橋の下へ落下した。軽自動車とタンクローリーに乗っていた人達は、事故が起きてすぐ脱出したらしいが、女はそうはいかない。十華はすぐに落下口に駆け寄り、見下ろした。かろうじて女と思われる白いかたまりが海に飛び込んだのが見えたが、すぐに見失ってしまう。、と呼ばれて引き寄せられると、倉庫に落ちた車が激しく爆発した。
「・・・」
「・・・」
沈黙が流れる。生死はわからないが、相手はあの組織の一員で、あれだけの身体能力の持ち主だ。そう簡単には死にはしないだろう。ライフルをおさめるべくそれぞれの愛車の元へ戻ると、女を追って行っていた安室透のRX-7がマスタングの斜め前で停車した。車から降りてきた安室は崩れた側壁と黒い煙をあげる倉庫を目にすると、キッと赤井を睨みつける。
「赤井・・・貴様っ・・・!」
安室が一歩踏み出した時、遠くからサイレンが鳴り響いた。あの音はパトカーのサイレンだ。そちらを見れば、赤いパトランプが回っているのも見えた。安室はギュッと堪えるように拳を握ると、赤井をにらみつけてから踵を返す。
「降谷くん!」
そんな安室を、が呼び止める。安室はぴたりと動きを止めると、半身だけ振り返った。
「・・・なんですか」
「・・・気を付けて」
「・・・ご忠告、どうも」
それだけ返すと安室はザッと車に戻り、ギャギャギャとすさまじい音を立ててタイヤを高速回転させると走り去って行った。RX-7があっという間に小さくなっていくのを確認すると、赤井はポケットからスマホを取り出して通話ボタンを押した。赤井がジェイムズに報告している間にはライフルをバッグにおさめてバイクにまたがる。
「行くぞ」
通話が終わった赤井はそれだけ言うと、すぐさまマスタングに乗り込みエンジンをかけた。そしてアクセルを踏み込み、走らせる。そのあとをもアクセルを唸らせて追った。
ジェイムズには電話で報告し、赤井と十華は彼らとは別行動をしていた。あの女が警察庁から盗んだのは、おそらく“ノンオフィシャルカバー”、警察庁が掴んでいる、世界中のノックリストだ。ノックリストには黒の組織に潜入している人間、安室透や水無怜奈、それに諸星大らの名前がある。また、それ以外のメンバーや、黒の組織以外の諜報員のリストも数多くある。そんなものを組織が手に入れてしまうと、世界中の諜報機関が崩壊してしまい、諜報戦争が起きかねない。それだけは、避けなくてはならない。
「それで、あの女の行き先は掴めたの?」
「あぁ、どうやら警察病院に運ばれたらしい」
「なんでまた・・・」
「詳しくはわからんが、東都水族館で何かあったらしい」
東都水族館といえば、リニューアルしたばかりの娯楽施設だ。何かしらの事件に巻き込まれて警察病院に運ばれたということだろうか。
「張り込むぞ」
「了解」
返事をすると、は助手席から降りて愛車に跨った。マスタングが発進するそのあとに続いて、警察病院を目指した。
警察病院前のバス停から少し離れた所に停車し、動きがあればいつでも対応できるように待機していると、昨夜の追走で車体がへこんでしまったRX-7が警察病院の駐車場に入って行った。まぎれもなく、安室透だ。だがその車はしばらくすると駐車場から出てくる。あの女を連れ出すのでは無いのか?と疑問に思ってじっと目を凝らし、はっとした。その助手席には、ベルモットが乗っていた。安室が危ない。エンジンをかけようとしたは、電話の音で動きを変更した。
「何!?」
『俺が追う。お前はこのまま動向を見張れ』
「っ、わ、わかった・・・」
『・・・任せろ』
まるで、彼を頼むという隠語を読み取るかのような応答。そしてプツ、と通話が切れた後、マスタングがエンジンをかけて発車した。その去って行く後ろ姿を見送り、は病院へと目を返した。
穏やかな海が夕暮れに赤く染まる頃、シャッターが下ろされたひと気のない倉庫の前に、ポルシェ356AとRX-7が停まっていた。その倉庫の中には男女ともに三人ずつ、そのうち一人ずつは、鉄骨の柱に後ろ手で手錠をかけられ、拘束されていた。拘束されているのは、ノックの疑いが掛けられている安室透と水無怜奈。それぞれ、公安警察とCIAの潜入捜査員だ。警察庁に忍び込んだ工作員―キュラソーが組織のボスの腹心であるラムに送ったメールに、キールとバーボンの名前もあった。だが途中送信されたそれは、2人が確実にノックであると伝えたものではなかった。その他にノックであると確信づけられた、アクアビット、スタウト、リースリングは、すでにジン、キャンティ、コルンの手によって抹殺されていた。本当にバーボンとキールがノックであるかはキュラソーにきけばわかるのだが、現在それは叶わない。キュラソーは大事故の時に頭を打ち、記憶喪失になってしまったのだった。ベルモットが接触したが、彼女はまったく反応を示さなかったらしい。それでこうしてバーボンとキールを捕えたのだ。そして、自分達を疑うのはキュラソーを奪還してノックリストを確認してからでも遅くはないはずだ、と言ったキールに「確かにな。だが・・・」と返し、ジンは彼らに銃口を向けた。
「疑わしきは罰する。それがオレのやり方だ」
ウォッカとベルモットが驚愕の声でジンを呼ぶが、ジンはききとめもせず、たばこを吐き捨てる。
「さあ、裏切り者の裁きの時間だ」
そしてたばこを踏みにじると、その引き金を引いた。
銃声が響いた後、彼らの足元に赤い染みが広がった。肩を撃たれたキールがガクリと膝をつき、その手からヘアピンが落ちる。ジンたちに見えないように手錠を外そうとしていたようだ。
「まだ容疑者の段階で仲間を・・・!!」
安室が非難の声を上げるが、ジンは耳を傾ける様子はない。
「仲間かどうかを断ずるのはお前らではない。・・・最後に1分だけ猶予をやる。先に相手を撃った方にだけ拝ませてやろう。ネズミのくたばる様を」
言ってジンが再び引き金に手をかけ、「ウォッカ、カウントしろ!」と声を上げる。ウォッカは「了解」と返し、腕時計を見てカウントを始めた。
「50、49・・・」
ゴクリ、とバーボンとキールの喉が鳴る。
「そんな脅しにのるもんですか!」
「彼女をノックと言ったら、自分がノックであると認めることになる。そんなヤツをあんたが見逃すはずがない!」
「・・・・・そいつはどうかな。オレは意外と優しいんだぜ」
優しいと言いながら、その声が実に冷ややかだった。
「はやく吐いちまえよ、バーボン」
バーボンの肩にひじを置き、が彼に囁いた。
「僕は彼女がノックかどうかなんて知りません!」
バーボンはを横目でにらみつけて声を上げる。
「ノックかどうか知らなくても、キールを売っちまえば助かるかもしれないぜ?」
「ノックじゃなかったら、仲間を売った事になる!」
「優しいねぇ・・・バーボン、アタシはアンタのそのイケてる顔に風穴が空くのを見たくねぇんだよ。なぁ、わかってくれるよなァ?」
「そんなの・・・っ!」
ウォッカのカウントが20秒を切った。バーボンもキールも、自分はノックじゃない、向こうがノックかどうかなんて知らないと主張している。カウントが10を切った。
「残念だ」
スッとがバーボンから離れてウォッカのそばに寄る。
「6、5、4・・・」
「バーボンか・・・キールか・・・」
「3、2、1・・・」
「まずは貴様だ、バーボン」
ジンの銃口がバーボンに向いた。ウォッカが「ゼロ」と口にした直後、ジンがトリガーにかけた人差し指に力が入る。だがそこから弾が出る事はなかった。ビシュッというかすかな音がした後、天井からつりさげられたライトが落ちてきてジンのそばにあった投光器に直撃した。バーボンとキールを照らしていた光が消え、倉庫内が暗闇に包まれる。動揺が起きたがすぐにジンは柱に銃口を向けなおし、ベルモットがスマホのLEDライトで2人を拘束している柱を照らした。
「!?バーボンがいねぇ!」
そこにいたのはキールのみで、バーボンの姿はどこにもなかった。床に落ちていたのは、バーボンを繋いでいた手錠と、まがったヘアピンのみ。今の十数秒の間に床に落ちていたヘアピンを広い、手錠を外して逃げたというのか。ジンが奥歯をかみしめたとき、バンッと扉を開ける音がした。
「追えっ!!」
ジンの声でウォッカ、、ベルモットが走る。だがベルモットは揺れたスマホに気づき、すぐに足を止めた。ラムからメールが届いたのだ。バーボンとキールはシロ。だが、それはキュラソー本人が送ったメールかわからないから、確認する必要がある、と。キュラソー奪還作戦の、開始だ。
警察が、動いた。警察病院の近くに待機していたは、車に乗せられるあの女―キュラソーを目視した。同乗しているのは眼鏡をかけた男―風見裕也。見たことの無い刑事だな、との第一印象だ。追うべくエンジンをかけようとしたとき、不意に青い車が目に入った。
(青のダッジ・バイパー・・・確か・・・)
組織の狙撃手、キャンティの愛車。
(ヤツらもすでに目星をつけてるってわけね)
ち、と舌打ちをし、エンジンをかける。キュラソーを乗せた車とキャンティ達に気づかれないよう、2台を尾行した。
バーボンはすでに逃げたらしく、見つからなかった。戻って来たウォッカとが報告すると、バーボンは後回しだと返される。まずはキュラソーの奪還。目指すは、東都水族館。
「哀さん?」
工藤邸に向かっていたは、タクシーに乗り込もうとしていた哀に声をかけた。
「くん・・・!?」
「どこへ、行くんだ?追跡眼鏡の予備なんて持ち出してさ」
「・・・」
「新一に、何かあったのか?」
だめだ、この目には見透かされている気さえする。哀は観念して息をはき、キッとを見た。
「乗って、行きながら話すわ」
「・・・わかった」
哀がタクシーに乗り込み、が続く。哀が指示する方へ、タクシーは走り出した。そして辿りつくのは、東都水族館。
東都水族館に着いたは、赤井の指示通り観覧車に向かった。公安が係員に話をつけている最中に忍び込む。観覧車内部に潜り込むと、まず赤井の姿を探した。
(秀一、どこに・・・?)
すでに着いているはずなのだが。ヤツらが来るとすれば、内部破壊か空からの襲撃。後者の可能性が高い。だとしたら、少しでも高い位置の方が狙いやすい。は上を見上げた。高く高く続く、観覧車。意を決し、は階段を駆け上がった。
タクシーを降りた哀とは、追跡眼鏡のマークを頼りに観覧車へ向かった。組織の一員と思われる、記憶を失くした女性の話はすでにきいている。彼女は観覧車で様子がおかしくなったらしく、また観覧車に乗れば記憶を取り戻すかもしれないと推測したのだろう。
「うまく忍び込めるかな」
「私だけならともかく・・・」
「いや、うまくやるさ」
に、と笑ったが、なんだかとても頼もしく見えた。
レストランでパソコンを広げて観覧車を見ていたは、遅れてきたベルモットに「遅かったな」と声をかけた。
「ちょっと面倒なことがあってね。まぁ、どうということはなかったけれど」
「フーン」
「どう?様子は」
「公安がわんさかいやがるぜ。んで、キュラソーはあそこだ」
あそこ、と指差された場所をベルモットは双眼鏡で見た。ゴンドラの中に、男とキュラソーが向かい合って座っている。
「あの感じだと、頂上までは約10分ってとこかしら?」
「あぁ、アニキにもそう伝えてある」
「あら、仕事がはやいのね」
「だから言ったろ?“遅かったな”ってさ」
にっと笑ってみせたに、ベルモットは肩をすくめる。
「けど、合図はアンタの仕事だ。頼むぜ?ベルモット」
「えぇ」
パソコンを寄せられ、ベルモットはその画面を見つめた。
レストランの前まで来て、哀とは一度立ち止まった。ここからなら大観覧車の全貌を見渡せるからだ。眼鏡の望遠機能で哀が観覧車を見て、「どういうこと?」と呟いた。
「どうした?」
「人が乗ってない・・・」
「え?」
「あっ、でも・・・え!?」
首を上げた哀は驚愕の声を上げた。頂上付近のゴンドラに人影を見つけたのだ。それは、歩美、元太、光彦の三人だった。
「どうしてあの子達がここに!?」
「やっべぇな・・・確実にあそこは戦場になるぞ」
「はやく連れ戻さないと・・・!」
「哀さん!ったく」
あれこれ考えている暇はない。も置いていく勢いで哀は走り出し、は彼女の後を追った。
は赤井の姿を探した。だが一向に見つかる気配がない。もっと上か、だがもっと上といえば、ホイールの上ということになる。
「あんなところにいる・・・?」
風が強く、とてもライフルを構えられる場所とは思えないが。だが確かめてみる価値はあるか。そう思って階段を駆け上がろうとした時、上空から何かが落ちてくる気配がした。
「え?」
見上げれば、ふたつの影。すぐに大きくなり、それらは階段をのぼった先に落ちた。うめき声がきこえ、それが耳に覚えのある声であることを瞬時に判断する。
「安室くん!?」
だがその声は本人は届かず、すぐに違う音が響いた。殴る、蹴るの鈍い音だ。は一気に階段を駆け上がると、その光景を目にしてぎょっとした。
「あんた達何やってんの!?」
「・・・さん・・・」
「・・・」
2人はを視認したが、またお互いに目を戻してしまう。ちょっと、と踏み出そうとしたを、安室が制した。
「邪魔しないでください、さん。こいつは・・・この男は」
「・・・」
「邪魔しないでじゃない!こんな時に馬鹿なことやってないで、」
「さぁ、第二ラウンドと行きましょう!」
の制止の声は安室に届かない。チッと舌打ちがきこえたことから、赤井は止めようとしているのだろう。だが安室の勢いはなかなか止まりそうになり。どうしたら、と唇をかんだとき、下から赤井を呼ぶ高い声がきこえてきた。
「赤井さーん!そこにいるんでしょー!?」
三人ともが知る、不思議な少年、コナンだ。
「大変なんだ!力を貸して!ヤツら、キュラソーの奪還に失敗したら、爆弾でこの観覧車ごとすべてを吹き飛ばすつもりだよ!!」
「爆弾!?」
「さんもいるんだね!?」
コナンの声は安室にも赤井にも届いている。だが安室は一瞬拳をゆるめただけで、赤井を見るとまたキュッと引き締めてしまった。
「安室くん」
が彼を呼ぶと、ちらと視線が交じる。安室が再び赤井に目を戻すと、彼は黙って首を横に振った。
「お願いだ!手を貸して!ヤツらが仕掛けてくる前に爆弾を解除しないと、大変なことに・・・!」
コナンの必死の声が響く。安室はフゥ・・・と息をつくと、拳をゆるめて腕をおろした。そしてクルリと後ろを向き、フェンスから身を乗り出して声を上げる。
「本当かい?コナンくん!」
「安室さん!?どうやってここに!?」
「その説明は後だ!それよりも爆弾はどこに!?」
「車軸とホイールの間に無数に仕掛けられてる!遠隔操作でいつ爆発するかわからないんだ!一刻もはやく解除しないと・・・」
「わかった」
安室が返事をする前に、赤井が歩き出していた。
「FBIと、さんとすぐに行く!」
コナンは一瞬きょとんとしたが、すぐに「うん!」と大きくうなずいた。
「あっ、コナンくん!」
その直後にが声を上げ、おりようとした赤井の腕をぐいっと引っ張る。不意を突かれた赤井が、無言でを見た。その視線には目もくれず、はコナンに言う。
「少しだけ待ってて!すぐに行くから!」
「え?う、うん、わかった!」
コナンの返事をきくと、は「よし」と呟いて、ハンカチを取り出した。
「まず秀一ね。あんた達そんな顔でコナンくんの前に出るとか無いでしょ」
「ム・・・」
(・・・まず?)
はハンカチを赤井の口に持っていてその血を拭く。若干前かがみになっているのは、が赤井の腕を引いているからである。
「口切っただけ?」
「あぁ・・・」
「なら大丈夫ね。あと自分でやって」
「・・・」
ハンカチを赤井に押し付けると、今度は別の綺麗なハンカチを取り出す。
「次安室くん!」
「え?」
不意を突かれた安室がきょとんとした。
「あーあー、頭から盛大に・・・」
そして無防備になっていた安室は、胸倉をぐいっと引き寄せられて前かがみになった。
「!?」
「目には入ってない?」
「は、はい」
「ならよかった」
ピリ、と切れた部分がうずく。そっと白いハンカチが顔をすべり、赤く染まっていく。安室は頬が熱くなるのを感じて、それがに悟られないかが心配だった。
「まったく、無茶して・・・」
「・・・」
「これで大丈夫かな?」
「・・・ありがとう、ございます」
「どういたしまして!」
はにこっと笑うと、ハンカチをおさめた。汚してしまって申し訳ない、と安室は思っていたがそれを切り出す暇はあるはずなく、三人は急ぎコナンの元へと向かった。
消火栓ボックスに爆弾は仕掛けられていた。ボックスを開けること自体もトラップとなっており、安易に開けたら爆弾が爆発する仕組みだった。それを安室が解除する。安堵の息と、感嘆の息がこぼれた。
「すごいのねぇ、安室くん」
「これくらいはどうということはありませんよ」
いやいやすごいよ、と言ったの背後に、車軸に乗ってコードをチェックしていた赤井がダンッと飛び降りた。
「どうだった?赤井さん」
「やはりC−4だ。非常に上手く配置されている。全てが同時に爆発したら車軸が荷重に耐えきれず、連鎖崩壊するだろう」
「ヤツら、また面倒なものを・・・」
C−4はプラスチック爆弾の一種だ。これが爆発してしまったら、大変な事になる。遠隔操作が可能なら、なおさらだ。
「悩んでいる暇はなさそうですね」
中のホースを引っ張りだし、装置を確認しながら安室が言った。
「どう?解除できそう?」
「問題ない、よくあるタイプだ。解除方法はわかるよ」
コナンの問いに安室が答える。
「へぇ、爆弾処理もしっかりできちゃうんだ?」
「警察学校時代の、後に爆弾処理班のエースになった友人からの受け売りですけどね。まぁ、その男は爆弾の解体処理中に爆死しましたけど」
「観覧車の爆弾解体・・・」
呟いたのはコナンだった。今の説明で、思い当たる人物がいたのだろう。ちら、とはコナンを見たが、追及しないことにした。
「アイツの技術は完璧だった。それを僕が証明してみせるよ」
「うん」
安室が笑い掛け、コナンが力強く頷く。
「すごいね、私はこういうのからっきしだから」
「覚えておくと役立ちますよ。機会があれば、お教えしますよ」
「・・・そうね、お願いしようかな」
苦笑するに安室が笑い掛け、起爆装置のカバーを外した。だがすぐに、その表情が険しくなる。
「安室くん?」
「基板が小型化していて、アーミーナイフだけでは・・・」
「これを使え!」
ライフルを組み立てていた赤井が、自らが背負っていたライフルバッグをコナンの元へ蹴りすべらせた。
「赤井さんは?」
「ヤツらは必ずこの観覧車で仕掛けてくる。キュラソーの奪還を唯一できるルートは・・・」
「空」
続けて答えを出したに赤井が頷く。
「俺は元いた場所に戻り、時間を稼ぐ。なんとしても爆弾を解除してくれ」
「ちょ、秀一!」
走っていく赤井の背中を見て、安室はフンと顔をしかめた。
「簡単に言ってくれる・・・」
「はは・・・」
乾き笑いしか出ないの横で、コナンがライフルバッグから工具を出して安室に渡した。だがその直後、ジナンがはっと表情を変えて走り出した。
「コナンくん!?」
「ノックリストを守らないと!」
「えっ?」
どういうことだときく暇もないまま、コナンは階段を駆け下りて行った。
「ったく、どいつもこいつも・・・」
「それじゃ、私も行こうかな」
「・・・あなたもですか」
「じっと見られてると集中できないしょ?それに」
は天井の高い観覧車を見上げた。
「何もせず黙って待ってるなんて、できないしね」
「・・・・・」
らしい。と安室は口元に小さく笑みを浮かべた。この人のことをそう詳しく知っているわけではないが、自分の知っているという人は、こういう人だ。
「私も狙撃できそうなポイントが無いか探してみる」
「わかりました」
赤井のものより少々小型のライフルバッグを背負い直し、は安室に背を向けた。だが半身振り返り、爆弾を指差す。
「ソレは任せたわよ、零くん!」
「っ、」
反則だ、と安室は思ったが、当の本人はまったく気にする様子もなく走り去っていった。はぁ、とひとつ息を吐き、キッと起爆装置を睨みつける。
「・・・・・任せてください、さん」
時間との勝負の、始まりだ。
キュラソーの様子が、おかしい。観覧車に乗せられたキュラソーが、アトラクションのひとつである光の仕掛け−5色の光を見てパニック状態になった。頭をおさえ、苦しんでいる。
「あん?キュラソーのやつ、記憶が戻っていたんじゃなかったのかよ?」
「えぇ・・・でなければ、あのメールは」
ラムに届いた、キュラソーからの2通目のメール。あれはキュラソーが送ったものではないことになる。ベルモットとが双眼鏡でキュラソーを観察していると、彼女は頭をおさえたまま動きを止め、やがて、ゆらりと起き上がった。そのままキュラソーは同乗していた風見をおさえこみ、気絶させた。風見の懐から鍵をとって手錠を外すと、床に転がった風見のスマホで電話をかける。相手は、ベルモットだ。記憶はやはり戻っていたようだ。あのメールも、自分が送ったものだと言った。何を思って、何を浮かべて言ったのかは、ベルモットには知るはずもない。通話を切ると、ベルモットは通信機のスイッチを入れ、カウントを始めた。そして、「ゼロ」の合図でパソコンのボタンを押す。東都水族館の電気制御室に仕掛けたUSBが作動し、園内の証明が次々と消えていく。ベルモット達がいるレストランの電気も消え、観覧車も真っ黒になった。
「いよいよだな・・・」
はその口元に笑みを浮かべながら、観覧車を、その上空を見つめた。闇夜に紛れた黒いかたまりが、観覧車に近づいていった。
園内は、水族館を除いて闇につつまれた。突然の停電にパニックになった客たちが、水族館は明かりがついているからと一斉に駆けだす。その波に押し流されないよう、はしっかり哀を抱えた。
「どうなってんだ、こりゃ」
「わからないわ・・・でも、嫌な予感がする・・・。はやくあの子たちを連れ戻さないと!」
「よし、急ぐぜ!」
哀を抱きかかえたまま、は人の波に逆らって走り出した。哀が大事にしたいと思うようになった、大切な仲間達の元へ。
は不意にローター音を耳にして、はっと顔を上げた。外が見える隙間から暗視スコープで上空を伺い、ぎょっとする。
「何あれ・・・!?」
通常のヘリコプターではない最新鋭の軍用ヘリというだけでも大ごとだというのに、その先には巨大なアームがのびていた。その先はこの観覧車に向かっており、その目的を瞬時に把握する。
「まさか、アレでゴンドラごと・・・!?」
なんて無茶苦茶なことを。はチッと舌打ちをすると、赤井と合流すべく上へと走り出した。
軍用ヘリの巨大アームがゴンドラにのび、メキメキと音を立てながら観覧車の輪からその部分だけを引き剥がした。だが少しの間があって、それはすぐに、観覧車の上に落とされた。大きな音を立ててゴンドラが観覧車にめりこんでいく。どういうことだ、あれでキュラソーを回収するのではないのか。考えている暇はない。急いで合流しなければ。
哀がスマホでゴンドラに取り残されている光彦達に連絡をとった。キュラソーがいたゴンドラからは離れているし、大丈夫だと思いたい。子ども達の乗るゴンドラを見つけた2人は、そちらに乗り込もうとしていた。哀を肩に乗せ、が手すりから身を乗り出す。もう少し、というところで、哀の身体が震えた。
「哀さんっ?」
軽く顔を上げて哀を見ると、その頭は上に向いている。さらに顔をよじらせると、そこには銀の髪を持つ女がいた。
「あれが、キュラソー・・・?っ、うわ!?」
体勢を崩してしまい、の身体がよろける。なんとか哀だけでもと急いで抱きかかえたが、の身体はぴたりと止まった。腰のあたりを掴まれている気がして、ゆっくり半身を返すと、そこにはの身体を支えるキュラソーがいた。
「な・・・」
「・・・っ」
はなんとか落ちずに済んで、キュラソーによって状態を戻してもらった。哀がすぐにの腕から飛び降り、キッとキュラソーを睨みつける。
「私を彼らの元に戻すつもり?」
「彼らって・・・組織のこと?」
キュラソーは記憶喪失だときいた。だが今の返し方からするに、記憶は戻っているようだ。
「もしかして、あなた・・・組織を裏切ったシェリー・・・」
「・・・」
が踏み出して、哀を庇うように隠す。それを見てキュラソーは冷静な顔のまま半身を翻した。
「さぁ、逃げるわよ。ここにいては危ない」
「え?」
「逃げるってどういうつもり?悪い冗談ならやめてくれる!?」
「ジンが来ている」
「!」
キュラソーの言葉で哀の顔が一気に青ざめ、ぎゅっとのズボンを握った。
「あなたならこの意味がわかるはずよ」
「で、でも、どうして・・・」
「わからない・・・なぜあなたたちを助けたなんて、わからない・・・」
キュラソーが一度目を伏せる。何を思い返しているのだろうか。人の頭の中なんてのぞけやしない、それは彼女だけの情景。
「でも、私はどんな色にでもなれるキュラソー。前の自分より、今の自分の方が気分がいい・・・ただそれだけよ」
「キュラソー・・・」
「さぁ、行くわよ。アナタ、シェリーちゃんをしっかり抱えていて」
「あ、あぁ。いや、だが」
「待って!」
歩き出すキュラソーに哀が声を上げる。まだあのゴンドラに子ども達が―哀の声にゴンドラを見上げたキュラソーは、クッ・・・と唇を噛んだ。
突然、大きな連動的な音と震動が響き始めた。観覧車のLEDビジョンが砕かれ始めている。これは、弾丸だ。
「まさか、見つからないからって無差別に・・・!?」
これは非常にまずい。は走り出した。それを追う様に機関銃が唸りを上げて迫ってくる。固い柱の陰になんとか滑り込み、身をひそめる。動いたら狙われる。意図せずチッと舌打ちが出てきた。ライフルを手にしても、それで狙う場所も、狙う隙もない。一体どうしたら。考えていた時、銃弾の波が、一ヶ所に集中し始めた。
「はやく!飛んで!!」
キュラソーに言われ、は哀を抱えた状態ではしごから飛び降りて通路に着地した。
「逃げて!!」
通路を全速力で駆ける。追いかけるように銃弾が通路を破壊していく。転がるように柱の陰に隠れると、周りの壁が弾丸を浴びて吹き飛んでいった。
(これじゃ動けねぇな・・・はやくあの子達を逃さねぇと。こんなのに巻き込まらせるなんて・・・!)
がギリ、と奥歯を噛みしめると、隣でキュラソーがスッと立ち上がった。そして彼女は自分のタイトスカートをビリビリと裂いた。
「キュラソー・・・?」
「ヤツらの狙いは、私・・・」
呟いたキュラソーの目には、覚悟の光が宿っていた。
「まさか、囮になるつもり!?」
「あの子達を頼んだわよ」
「ダメよ!殺されるわっ」
哀の叫び声を、キュラソーはフッと笑って受け止める。彼女は最後に、に顔を向けた。
「シェリーちゃんを頼むわね、ナイトくん」
「・・・あぁ」
「キュラソー!」
哀の呼び声にはもう振り向かなかった。キュラソーは暗い通路を走りだし、やがてその白い背中は、見えなくなった。
「・・・行こう、哀さん。みんなを助けに」
「・・・えぇ・・・っ」
組織の人間でも、大切なものを見つけて、守りたいと思うものを見つけて、黒から色がかわることもある。元々無色のキュラソーが、輝く色になった。本当はもっといろいろな色が出せたはずなのに。輝く、虹色のような色を。もう見えない、遠くできこえる弾丸の音を耳にしながら、は哀を抱えたまま元の場所へと駆け戻った。
こどもたちのゴンドラに到着し、無事に3人の安全を確認した。一体何が起こっているのかときいてくる3人に、今は大人しくしているように伝える。本当はすぐにでもここから離れたいが、どうやら向こうはなんらかの方法で観覧車にいるものを特定しているようだから、下手に動くよりはじっとしているほうがいい。いざとなれば、自分がこの子達を守る。はそう思いながら、おそらくあの観覧車の中で戦っているであろう、
色々なものが破壊されて月明かりさえ差し込んでくる通路をは走っていた。
「秀一ー!安室くーん!コナンくーん!」
「さん!!」
「安室くん!」
3人を呼びながら走っていると背後から自分を呼ぶ声がして振り返る。赤井のライフルバッグを背負った安室がそこにいた。
「よかった、無事だったんだ!というか、爆弾解除に成功したのね!」
「えぇ、それはなんとか」
「あとはこの状況をどうするかね・・・あっ!」
破壊された壁から外を見ると、斜め下に赤井とコナンが見えた。ライフルを手にした赤井を見て、安室が一歩踏み出す。
「そのライフルは飾りですか!?」
「それ言われちゃうと私のライフルも飾り・・・」
はは、と乾き笑いがもれてしまうが、今は冗談を言っている場合ではない。
「反撃の方法は無いのか?FBI」
隣りにいるも“FBI”だが、これは赤井に向けられたものだ。彼は自分が手にしているスコープを見て息をつく。
「あるにはあるが、暗視スコープがオシャカになってしまって、使えるのは予備で持っていたこのスコープのみ。これじゃ、あの闇夜のどデカい鉄のカラスは落とせんよ」
「なっ・・・なんて大事なものを・・・!」
「お前のは型が合わなかったな、確か」
そう、のライフルについている暗視スコープは無事だが、赤井のものとは型が合わない。もっとも、この距離では渡すのもなかなか至難の業であるが。
「暗視スコープがあればやれるの?」
「あぁ。ローターの結合部を狙えばおそらく・・・」
ローターの結合部・・・通常の角度では見えない。目がいい赤井で、かつさまざまな角度から観察したからこそ見つけられたのだろう。あとは軍用ヘリの姿勢を崩し、5秒ほどローター周辺を照らす事ができれば可能だと赤井は言った。それをきいてコナンは、「照らす事はできそうだけど・・・」と花火ボールが射出されるベルトに触れながら言う。
「大体の形がわからないと、ローター周辺には・・・」
いくら命中率の高いコナンのキック力でも、的が見えないと不可能だ。どうしたら、と思案していた時、再び銃撃が観覧車を襲った。銃弾が浴びせられているのは、車軸だ。
「まさか、このまま観覧車を崩壊させるつもり!?」
「マズイ・・・車軸にはまだ半分爆弾がのこってる・・・!」
一刻の猶予はない。この崩れかけの観覧車が爆発すると、周辺の人々が。は上空でローター音と銃声を鳴らすヤツらを見上げた。暗視スコープで覗くと確かにそれはわかる。だが、の腕ではローターの結合部を狙う事はできない。どうしたら、と唇をかんだとき、「そうか、爆弾」と安室が呟いた。
「コナンくん!大体の形がわかればいいんだったよね?」
安室の突然の声に、「え!?う、うん」とコナンが答える。よし、と呟くと、安室はライフルバッグをおろしてファスナーを開けた。そこにあったのは、消火栓ボックスに仕掛けられていた起爆装置だった。
「まさか」
「そのまさかですよ。離れていてください!」
安室に言われ、は少し下がった。“SYSTEM-STANDBY”の文字が表示され、カウントが始まった起爆装置を再びライフルバッグにおさめて背負い、安室は一気に壁際へ走った。
「見逃すなよ――!!」
安室はライフルバッグを肩から外し、機関銃のマズルフラッシュに向けてそれを思い切り投げた。カウントがゼロになった爆弾が空中で爆発し、その閃光で軍用ヘリが闇夜からうつしだされた。
「見えた!!」
コナンは素早くキック力増強シューズの目盛を回し、花火ボールを出して上空へと蹴り上げた。
「いっけええええ!!」
ヘリのローターの真上で、夜空に大輪の花が咲いた。明るい光が闇夜に紛れたそれを鮮明にうつしだす。そして彼は、その姿を、そのウィークポイントを捕えた。
「墜ちろ」
ライフルから一直線に弾が射出され、右翼エンジンにつきささった。ヘリは火を噴き、バランスを崩す。
「やったか!?」
「よし!」
「やった!」
安室が、コナンが、が声を上げる。赤井もフッと口の端を持ち上げてライフルを下した。だが、それで終わるほど、ヤツらは甘くなかった。再び機関銃が火を噴き始め、車軸が削られていく。諦め悪いな!と舌打ちし、はライフルを構えた。揺れる視界と揺れる的では、さすがに狙いが定まらない。
「青黛さん!ここはもう危ない!」
安室に言われてライフルを下す。車軸があらわになり、ついに爆弾が爆発し始めた。そして、ノースホイールが徐々に車軸から離れていくのが見えた。
瓦礫が落ちてくる通路を安室とは走っていた。いつの間にかローター音はきこえなくなっているから、ヤツらは引き上げたのだろう。しかし、ノースホイールが車軸から離れてしまった今、一刻もはやくあれを止めないと、大変なことになる。
「うわっ!?」
安室の前に瓦礫が落ちて来て、彼は足を止めた。少し後ろを走っていたも足を止め、「安室くん!」と声をあげる。2人の間や種変に次々と瓦礫が落ちて来て、床にひびが入る。そしてついに、安室の足元が崩れた。
「零くん!!」
「さっ・・・!」
粉塵の中、の足元も崩れ、2人とも下へとおちていった。
ぐるん、と視界が回り始めた。車軸を振り返り、は驚愕する。ノースホイールが車軸から離れ、転がり始めていた。
「みんな、すぐに何かにしがみつけ!」
哀が歩美を引き寄せて中央のテーブルにしがみつき、は元太と光彦を守るようにしながら手すりに掴まった。
(新一・・・頼む・・・!)
今は彼に懸けるしかない。不可能を可能にしてしまいそうな親友に、託した。
ガラ、と音を立てて瓦礫の山が少し崩れた。粉塵を上げながら身体を起こし、は顔を思いきり振った。どれくらい意識がなかった?ほんの数秒だったにすぎないが、にとっては長い時のように思えた。外を見ると、ノースホイールは徐々に水族館の方へ転がっている最中だった。
「あの先は水族館・・・ぶつかったらやばい・・・!」
は走った。痛む場所なんて気にしていられない。ひとまずサウスホイールのレールの上に出て、視界をクリアにしなければ。風が強く吹くその場所に顔出すと、ちょうどその“瞬間”を目にした。
「・・・投げた・・・」
安室がノースホイールに向かってコナンを投げたのだ。コナンの手にはベルトのようなものが掴まれており、それはこのサウスホイールに繋がれていた。あれをノースホイールと結んで、勢いを殺そうというのだろう。はひとまず安室の元へ向かった。こうなってしまっては、あとはもうコナンに任せるしかない。
「安室くん!」
「さん!よかった、無事だったんですね」
「えぇ、そっちも無事でよかった。コナンくんは、何を」
「わかりません。でも」
安室はに向けていた目をノースホイールに戻した。すでにノースホイールとサウスホイールは繋がっており、転がる勢いはかなりおさまっていた。あと少しだ。
「あの子なら、なんとかしてくれそうな気がするんです。不思議ですけど」
「・・・わかる」
あの子なら、きっと。そう思わせる何かが、コナンにはある。あとはもう託すしかない。
「頼んだわよ・・・」
きこえない呟きは、きっと風に乗って彼らに届く。
ホイールの動きがゆるくなった。止まったか、と思ったが、完全に止まったわけではないようだ。水族館にめりこんだ状態で、まだじわじわと傾いている。今のうちに抜け出すか・・・?という考えがよぎった時、頭上を走る音がした。バッと顔を上げてゴンドラの窓から外を見たの視界に、走って行く黒い背中と小さな親友の背中が入った。
(赤井さんと新一・・・)
まだ完全に止められていないこの大きな車輪を、なんとか完全に止めようと奮闘してくれているようだ。やがて大きなサッカーボールがホイールと水族館の間に滑り込まれた。ぐんぐん膨らんでいくサッカーボールがホイールをせきとめたかのように見えたが、それでもまだ、止まらない。もう手はないのか!?も、コナンも思っているであろう。だがそんな時、黄色い車体が、ホイールのすぐ下に見えた。哀も気づいたらしく、そのクレーン車を見ている。子どもたちは下を向いたままで、よかったとすらは思った。クレーン車に乗っているのは、子ども達によって心を洗われ、救われた、キュラソーだった。
(キュラソー・・・!)
ホイールに何度もぶつかり、なんとか押し上げようとするクレーン車。ぐらりと一瞬ホイールが揺れ、次の瞬間、鉄骨がクレーン車の上に、落下した。背筋が凍るというのは、こういうことを言うのだろう。ぐしゃりと潰れた車体は爆発を起こし、煙を上げた。も、哀も、言葉が出なかった。サッカーボールがしぼむと、ガレキと水族館で支えられて傾き、ホイールは完全に止まった。完全に止まった事を喜ぶ子どもたちに声をかけてやる余裕さえないまま、2人は呆然と、その形のわからなくなった物体を見つめていた。
煙を上げて停止したノースホイールを見て、「止まっ、た・・・?」と安室は呟いた。
「止まった!やったね、安室くん!」
「わっ!?」
突然ぎゅうと抱きしめられ、安室がたじろぐ。ピリ、と背中が痛んだが、それどころではなかった。
「ちょ、さん!?」
「あ、ごめんごめん、つい」
笑いながら離れるに、安室はまったくとこぼす。赤くなった頬を隠すように顔をそらした。
(これだからアメリカに慣れた人は・・・!)
「あ」
突然妙な声を上げたに、安室は首を傾げた。だがすぐにじっとあちこちを見られてまたたじろぐ。
「安室くん、また傷増えてる」
「え?あぁ、落ちた時ですかね・・・大丈夫ですよ、これくらい」
「降りたらちゃんと手当てしてもらいなさいね?」
「・・・さんもですよ」
「そう、ね」
苦笑するに、「それじゃ降りましょうか」と足を踏み出した安室だったが、動かないに首を傾げる。
「さん?」
「安室くん、先に降りてて」
「え?なぜ・・・て、な、怪我してるじゃないですか!それも酷い・・・!」
安室がの足を見てぎょっとした。その右足からは血が流れ、すね部分が赤く染まっていた。
「あぁ、大丈夫よ。歩けないわけじゃないし」
「大丈夫じゃないでしょう!こんなに血を流して・・・!」
安室はビリ、と自分のTシャツの袖を破くと、の前にしゃがみこみ、くるくると器用に彼女の足に巻き始めた。
「あああ破くなら私のにしてくれればよかったのに・・・」
「そういうわけにもいきませんよ」
きゅ、と結び終わると、安室は「よし」と呟いた。ありがとう、と声をかけると、いえ、と返ってきて、安室はくるりと背中を向ける。そして彼は、その場にまたしゃがみこんだ。
「?」
「おぶさってください」
「えっ!?」
まさかの発言に、は驚きの声を上げた。
「いやいや、おぶってとか降りにくいでしょ。というか安室くんの方が怪我ひどいんだから!秀一に結構殴られてたでしょ?頭から血も流してたし・・・」
カチン、と安室の頭の中で何かが鳴った。
「これくらい、どうということはありません」
「でも」
「大丈夫です、丈夫なんで」
「・・・」
頑固だなぁと思ったは、見つめていたその背中が汚れていることに気づいた。壁にすがったときにでもついたのだろうかと思ったが、一本の線が入っている部分もある。もしかして、とはその背中を軽くおさえた。
「う゛・・・!?」
「痛いんじゃないの背中!そんなのでよく背負うなんて言えたわね!?」
「い、いや、これはそのっ」
「お断りします!」
一度目は赤井との勝負中にレールから落ちた時に強打。二度目はコナンを投げる直前に強打。短時間で二度も鉄で強打し、さすがに丈夫と言う安室も激痛を感じていた。それを知っては足をひょこひょこさせながら安室の横をすりぬける。安室は勢いよく立ち上がり、急な動きに背中が痛んだのを耐えながら、に近寄ってその腕を掴んだ。
「・・・せめて、肩を貸させてください」
「・・・肩じゃ高いから、腕ね」
はた、と安室が目を丸くし、笑みをこぼした。その笑顔につられ、は怒っていたのも半分忘れ、笑い返したのだった。
サウスホイール側に乗って来た客たちにまぎれ、安室とは地上へ降りた。そのままひとめにつかないように木陰の方へ移動すると、突然が「あ」と声を上げた。安室がの視線の先を見ると、そこには黒い影がいた。
「・・・赤井」
安室が思わず顔をしかめる。だがその足は赤井の方へと進めてくれた。
「・・・怪我をしたのか」
「うん・・・」
「受け取ろう、安室くん」
「物じゃないんだけど私」
赤井が右手を出し、安室から赤井へとうつる。少し、名残惜しそうな視線が交わった。
「・・・」
「・・・」
(う、気まずい・・・)
赤井も安室も、視線はあわせるのに何も言わない。耐え兼ねたが、「そうだ」と口を開いて安室を見た。
「安室くん、ほんとちゃんと診てもらってね。頭やってるんだし、背中も大変な事になってるんだから」
「あ、はい・・・」
「ありがとね」
「え?」
突然の礼の言葉に、安室が目を瞬かせる。は笑みを浮かべていた。
「安室くんが支えて降りてくれなかったら、途中で力尽きてたかも」
「そんな・・・僕はただ、やりたい事をやっただけですよ」
「それで結果私が助かったんだから、ありがとう、よ」
「・・・はい」
の否定させない言い方に、安室は苦笑した。がよしと頷くと、軽く腕を引かれる。
「行くぞ」
「あ、うん。あっ、私バイク」
「・・・その足で乗るつもりか?」
赤井がジト目でを見る。は「う」と言葉を詰まらせた。
「やめておけ、事故るぞ・・・」
「えー・・・って、あんたライフル」
今度は赤井が動きを止める番だった。肩にはライフルがかけられたままだ。このままでは、いくらFBIでも無断所持のため銃刀法で逮捕されてしまう。今まさに目の前に警察官がいるわけだが。
「・・・お前のを・・・」
「入らないでしょ・・・」
「・・・なんとかするさ」
「えええ」
言いながら赤井がの腕を引く。それにつられても歩みを進めた。最後に軽く安室に手を振り、完全に彼に背を向けた。2人の背中を見送り、安室は口元に小さく笑みを浮かべる。
「・・・こちらこそ、ありがとうございます。・・・さん」
きこえない礼と名前を呟いたあと、安室は客たちに紛れ込んでその場を去った。